heart1
深い森の奥は。
漆黒の闇が支配する場所。
イザークは民俗学者だ。
大陸の北部に広がる広大な森林。
その奥深くに住む、先住民族の文化や歴史を調べている。
そのために、自分も彼らの近くに住居を構えていた。
まったく自分の文化と違う道を歩んでいる人間を知るという行為は、興味深い。
そこから、新たな発見があるからだ。
イザークが特に興味を持ったのは、彼らの宗教だ。
イザークの住む都市では、主に『キリスト教』を信仰する人間が大多数だ。
その中で、カトリックやら、なんやらと分かれているが、元を辿れば、同じ神に当たる。
しかし、イザークが研究対象としている先住民族の神は、『吸血鬼』だ。
彼らは、『吸血鬼』を神と崇めている。
珍しい種族だ。
イザークにとって、『吸血鬼』とは、実際いたのかもわからない存在のモノであり、まして、
血を啜ることから、悪魔の化身としても恐れられる、『恐怖』の代名詞のようなものであった。
それをどのように崇拝しているのか。
それを彼女は調べていた。
あまり、外とつながりを持たない先住民達だが、彼らはイザークをなぜか快く受け入れてくれた。
言葉は、なまりが強いが、わからないことも無い。
どうやら、自分の言葉の語原に近いようだった。
彼らは実に興味深かった。
生活が昼夜逆転しているのだ。
『吸血鬼』は日の光に当たると、灰になる。
なので、彼らも、昼間は家に篭って、じっとしている。
しかし、日が沈めば、家から出て、畑仕事などの日常生活を送るのだ。
『吸血鬼』は、狼、蝙蝠、霧に変身できるといわれており、特に『狼』は森の王と言われるだけあり、
森の民である、先住民族たちも恐れ敬う存在であった。
霧は彼らの住居を、外の人間から守る役目もある。
蝙蝠は空を自由に飛べる。
その様なものに変身できる『吸血鬼』というものは、彼らにとって憧れの存在でもあった。
では、どのように彼らは『吸血鬼』崇拝する経緯に至ったのか。
イザークはまだまだ、調べることが沢山ありそうなので、彼らの集落と、
自分の住む都市のほぼ中央に家を建ててもらい、そこから、月に数回、先住民族の下へ通うことになった。
調べだしてから、3ヶ月。
今日の夕方、イザークは先住民の集落に行くことになっていた。
必ず、迎えがあちらから来て、イザークを連れて行ってくれる。
今の時期は特に霧が濃く、先住民で無い限り、森の中を歩くことはかなり危険だ。
必ず迷う。
都市部に近い森はまだ安心だが、深くに行けば、いくほど、狼やその他の野生動物の住処になる。
そして、噂ではあったが、本当にいると言われていた。
『吸血鬼』が。
何年か前に、都市部で、男女問わず、何人もの人間が血を抜かれ、
ミイラと化した姿で発見されるという事件が起こった。
それから、『吸血鬼』の存在が噂され、先住民達もあらぬ疑いを掛けられたことがあった。
実は、先住民達が『吸血鬼』そのものであり、都市の人間を襲っているのではないかと。
しかし、その時は、すぐに犯人が捕まった。
犯人は若い男で、自分がやったと自供したのだ。
ヴァンパイアフィリアと言う病気だった。
しかし、不可解な点が幾つもあったので、警察は何度も調べたのだが、目撃証言とも一致するし、
男の部屋からも殺された人間の持ちものが出てきたので、警察は逮捕した。
しかし、その男は、約1年前に突然、刑務所の中で首をつって自殺した。
疑問を残したまま、『吸血鬼』騒動は一端幕を閉めたのである。
その頃は一時期、『吸血鬼』がブームになったのだが、時が経つにつれて、忘れ去られていった。
しかし、その事件がきっかけで、イザークは先住民を調査したいと思うようになったのだ。
『恐怖』を神と崇める、その精神をイザークは知りたいと思った。
「…おそいな…」
イザークは部屋の窓から、外を見る。
もうそろそろ、迎えが来てもいい頃なのだが、なぜか来ない。
イザークの森に作った家は、暖炉、キッチン等都市の一戸建てとなんら変わるところが無い。
唯一違う所と言えば、レンガでなく、木出てきているということぐらいか。
窓際に椅子を置いて、人の到着を待つが、いつもの時間を過ぎても人が来ない。
約束の時間を1時間過ぎても来ないので、調査用の服に着替え、イザークはカバンと、ランプを用意した。
そして、念のための銃を持ち、玄関の扉を開けた。
ドアを開けて、一瞬いつもと空気が違うことに気付く。
「…血の臭い?」
辺りに鉄のようなにおいがする。
しかし、此処は森の中、鉄などあるわけが無い。
人の気配もないし、動物がいるようでもない。
だが、血の臭いがする。
イザークはおかしいなと思って、辺りを見回す。
そして、少し高床式に作ってある家の階段を下りたところで、気配も無く、イザークの後ろに人影が下りた。
しかし、物凄い血臭を放っていたので、イザークはすぐに気付いた。
振り返り、銀の鉛が入った銃を突きつける。
「…何のようだ」
闇の中に、紫の瞳が浮かんだ…。
「助けて…ください」
「?」
ドサッという音を立てて、イザークの背後にどこからともなく降りてきたモノは、いきなり助けを求め、倒れた。
銃を握るために、放り投げてしまったランプを拾い上げ、倒れたものに近づける。
最初に、足が目に入り、その後、服がびりびりに破かれ、傷だらけになっている胴体、そして…頭。
うつ伏せになっているので顔はわからないが、茶色の髪。
体格的に男だ。
イザークは急いで、家の中にずるように男を引き入れた。
木の床に置いて、改めて確認する。
引きずった後を見ると、血が線になって残っていた。
仰向けにすると、顔中が血だらけだ。
特に口元が真っ赤に染まっている。
イザークはそれを見ただけで、男に不信感を抱いた。
『吸血鬼』ではないか。
目の色も、ちらっと見ただけだが、紫で珍しい。
だが、口元の血だけなら、疑うに値するが、何故こんなにも全身傷だらけなのか…。
もしかしたら、口の中を切っているだけなのかもしれない。
「はぁ…私もずいぶんと毒されてきたものだ」
その後イザークは男の上着を脱がし、上半身の血をぬぐい、包帯を巻きつけた。
さりげなく顔を拭く時に、口の中を確認したが、牙は無い。
思い過ごしだったようだ。
やっとの思いで、自分のベッドに男の弛緩した重い体を乗せる。
呼吸はしているが、目覚める気配はない。
仕方なく、イザークは男にベッドを貸し、再度先住民の案内人が来るのを椅子に座って待ち続けた。
何から逃げたいのかもわからず、キラはただひたすら何かから逃げていた。
漆黒の闇の森の中、微かに光る明かりを頼りに。
「っぁぁ!!」
「…気がついたか?」
イザークはベッドからいきなり起き上がった男に気付き、歩み寄る。
「いきなり、私の背後にいるから驚いた…危うく撃つ所だった」
イザークは椅子を引き寄せて、ベッドサイドに持ってきて座る。
「助けてと言っていたので、一応、応急処置はしておいた」
「…すいません」
男は頭を垂れる。
良く顔を見ると、やはり紫色の目だ。
「いや、それより、大丈夫か?かなりの傷だったが…」
「はい…僕にも一体何がなんだか」
「…夕方とはいえ、こんな森に一人で入るのは、危険だ。傷からして、野犬か…命が助かってよかったな」
イザークは立ち上がり、キッチンへと向かう。
いい匂いが部屋中に漂っていた。
「こっちに来られるようだったら、こっちで食べるといい。丸二日も寝込んでいたから、腹も減っているだろう?」
男は大分回復したようで、一人で歩いてキッチンのテーブルに来ることができた。
「助けていただいて…本当にありがとうございます。僕は、キラです」
「私は、イザーク。この森の奥に住む先住民の調査をしている、民俗学者だ…」
先住民と聞いて、一瞬キラが、表情を変えたが、イザークは気がつかなかった。
「一昨日のことは…本当にあまり覚えてなくて、無我夢中で…」
「そうか…まぁ、ひどい目に合ったのだろう。早く治せよ」
イザークは、キラにスープとパン。それと、チーズやハムなどが乗った皿を差し出した。
湯気が立つスープはとても美味しそうだ。
キラはゆっくり、スプーンを使って飲む。
空っぽだった胃に、しみ込んで行く。
「美味しい…」
「そうか、食べられるなら、全部食べろ。その分体の回復も早まるからな」
キラは、イザークがキッチンに戻っていくと、部屋をぐるっと見渡した。
シンプルな作り。必要最低限のものしかない。
唯一目を引くのは、大きな本棚と、机に積まれた今にも落ちてきそうな本の山。
彼女が学者というのは、本当のようだ。
そして、壁に掛けられている、銃とナイフ。
どちらも銀で出来ている。
あまり自分には関係はないが。
でも…貴女がイザーク…。
「どんな調査をしているんですか?」
イザークは、今度は自分の分の食事を持ってきた。
「あー…先住民の宗教文化をな。キラは知っているか?」
「えぇ…『吸血鬼』ですよね?」
「変わっているだろ?それに興味を持って。…きっかけは、ヴァンファイアフィリアの事件だったが」
時計が壁にかかっており、見るともう昼も過ぎている。
キラがドキッとする。
でも、やはりイザークは気にならない。
「食べたらもう少し休んでいろ。どっち道、この時間でも外に出るのは危険だ…
今夜は満月だからな」
「はい…本当にお世話になります」
「気にするな…敬語もよせよ?どうせ大して年も違わない…」
「…うん、ありがと、イザーク」
満月は、霧が一気に晴れる。
霧は『吸血鬼』の変化した姿だというのは、嘘ではない。
実際この大陸には、本当に『吸血鬼』というものが存在していた。
そう…先住民がそうだ。
彼らの祖先を辿っていくと、一組の『吸血鬼』の夫婦にたどり着く。
しかし、彼らの多くは、人間との接触により血が薄まり、普通の人間に近い。
多少、光に弱かったり、顔や体の作りが違ったりする。
そして決定的な違いは、少しでも『吸血鬼』の血が混ざって入れば、体を狼や霧・蝙蝠に自由に変化させることが出来る。
また、『吸血鬼』というものは、血を飲まなければいけないと思われがちだが、
それは『純血種』と呼ばれる、『吸血鬼』の中でも特別な種族だけだ。
なので、先住民の多くにとって、吸血行為は必要が無い。
無害だ…。
しかし、都市の人間はそんなことは知らない。
先住民達は、外から入ってきた人間を決して、再び外に出そうとはしなかった。
記憶を消す、操る。
それが出来る者がひとりだけいる。
それが、彼らの現人神。
『純血種』
それは、『吸血鬼』の中の、王のような存在。
不老不死の体を持ち、金色の瞳は動物の心を操る。
終わることの無い悠久の時を生きる。
孤独な存在。
何千年も昔。
一組の夫婦の純血種の『吸血鬼』達には多くの純血種の子供がいた。
夫婦は、子供達に言い聞かせた。
『この命は…長く苦しい。愛するものに出会っても…人間は私達と同じときを歩むことは出来ない…
私達の子供として生まれてしまったことを後悔するだろう…』
母が言う。
『だから、これ以上私達のような純血種を作らないで欲しい…』
父は言った。
純血種を作るなということは、近親相姦を禁止し、そして、人間を噛むことの禁止も意味する。
純血種に噛まれると…死ぬか、不老不死の命を受ける。
それに、反対を示す子供は最初誰一人いなかった。
思い思い兄弟達が、人間と恋愛をして、家庭を作っていく。
父と母の考えで、深い森の中に村を作り、たまに迷い込んでくる人間を村人として、
記憶を入れ替えて住まわせた。
この頃は、皆外に出て行ったりもしていた。
しかし、それが村を作り100年が過ぎた頃。
兄弟の仲で、ある一人が死んだ。
自殺したのだ…愛する者を追って。
それから、そのような出来事が何度か起きた。
しかし、父と母は何も言わない。
それを、気に食わないと思った子供が独りいた。
どの兄弟とも似ていない、純血種ではあるが、紺色の髪。
エメラルドの瞳。
誰よりも強い力を持つが、誰にも心を開かない。
その子供が、両親に反旗を翻した。
まず、父と母を殺し、そして兄弟達を殺していった。
心臓に銀の杭を打ち込み。
彼の人を操る能力は素晴らしく秀でていて、一機に村人の記憶をすり替えた。
何故、人を噛んではいけないのか。
何故、人間を愛せるのか。
『100年も生きられない、出来損ないを』
だったら、噛んで仲間にしてしまえばいい。
純血種に噛まれれば、不老不死になれるのだから。
何故兄弟達はそれをしなかった…。
何故、人間に自分達が合わせなければならない…。
おかしい!!!
人間は…我らの足元にいればいいのに。
自分は神になるべき存在である。
「イザーク…イザーク…今寝ると、夜眠れないよ?」
机の上で、うっつらしていたイザークを、キラが親切で起こす。
昨日の今日だが、大分体も回復して、自由に動き回れる。
イザークは、なかなか来ない、先住民の案内人を夜中まで待っている。
そのため、寝不足になり、夕方辺りに睡魔が襲う。
「悪い…」
「そろそろ…暗くなってきたから、カーテンを閉めようか?」
キラが、そう言ってカーテンを閉める。
そして…見てしまう。
満月の月が、運悪く、窓の正面の木々の隙間から覗いているのを…。
「うわぁぁぁ!!」
「なに?」
突然叫び出すキラに、イザークが驚く。
カーテンを握り締めたまま、苦しそうに蹲る。
しゃがみ込む時に、カーテンがレールからすごい音を立てて、引きちぎられた。
イザークは、体が痛んだのだと思い、椅子から立ってキラに近寄る。
「キラ…大丈…」
「近寄らないで!!!!」
イザークの言葉を、キラがさえぎる。
キラがイザークを見る。
紫の目が、今は黄金に輝く。
口で息をして、それが薄く開いたときに見える、鋭い牙。
「お前…」
「血…血が欲しい…」
イザークはパニックになった。
突然、キラが変化してしまったのだ。
『吸血鬼』に。
このままでは、自分が襲われると思ったイザークは、キッチンから、
昨日猟師から貰い受けた新鮮なうさぎの肉を掴んで、キラに向かって放り投げた。
ヴァンパイアフィリアの治療では、新鮮な生肉を食べさせることもある。
血生臭い、臭いをかぎ付けて、キラがそれを鷲掴み、頬張る。
標的は自分から、うさぎに移ったようだ。
イザークは、キッチンに座り込んだ。
まだ、バリバリという音が聞える。
自分の研究対象が、現実となって現れたのだ。
「…もういいのか」
「…」
キラが落ち着いたことを確認して、イザークが彼の前に出てくる。
骨まで残らず貪ったキラの口の周りに、残る血痕。
しかし、イザークが寄ってきたことに、キラはひどく怯えた。
「…私が悪い。『吸血鬼』が他人の家に入るときは、招かれなければならないからな…そうだろ?」
「うん…」
「お前をいれたのは、私だ…お前は悪くない…」
「僕は…こんな化け物になりたかったんじゃない!!!!」
キラはイザークに縋り付いた。
「…キラがいない?」
薄暗い、レンガ作りの屋敷の奥。
光は蝋燭の炎のみ。
部屋の隅のベッドに現人神が横たわりながら、下僕からの報告を聞く。
「えぇ、今回のジュール様の案内人はアイツのはずでしたが…4日経っても、戻ってきません」
「そうか…」
「貴方様の言うことを聞いたと思ったら、また当日になって、拒否しましたので…
少々痛めつけておいたのですが…」
「相変わらずの、精神力だな」
ゆっくりと、起き上がり、天蓋のカーテンを開けた。
「どちらへ?」
「俺が…探しに行こう。レイ、お前はアレを…」
「はい」
レイと呼ばれた金髪の少年は、長い髪を乱すことなく、一瞬にして霧となる。
「満月の日は…喉が渇くな」
舌で乾いた自分の唇を舐め、現人神も消えた。
近づいてくる。
拭い去れない不安は、キラを恐怖に陥れる。
あの人から逃れたい。
本当なら、死んでしまいたいのに。
そんな勇気も無い。
「…そうか、純血種か…」
イザークは、カップに暖かい紅茶を注いで、キラに差し出す。
キラは、床に座り込んだままだ。
「村の…現人神だよ。今の村人は、ほとんどが混血で、すでに人と同じくらいの寿命しかないんだ…。
いろいろ変化したりはできるけど…」
「どうして…お前が?」
「さぁ…彼の考えることは、わからないから…。彼も見た目は僕と同じくらいだよ。不老不死だから…
一定期間を過ぎると、もうそこから年をとらない」
イザークも、キラの正面に座り込む。
「満月だけか?お前が辛いのは…」
イザークが心配してキラを覗き込む。
「うん…あの、丸くて黄色いのは、彼の本来の瞳そのものだから…暗示にかかるようなかんじかな…。
牙が伸びるて、血が物凄く欲しくなるんだ…啜れば収まる。今日みたいに、
肉をかじっても…戻れるって初めて知った。でも、僕は怖い」
キラは自分を抱きしめた。
純血種に噛まれてしまったがために、どうしても血が欲しくなる。
満月を見てしまうたびに、何人もの人間の血を啜ってきた。
加減が効かなくて、何人も殺した。
そう…無差別に。
数年前のヴァンパイアフィリア事件。
あの、本当の首謀者は、キラだった。
それから、彼は村の自分の家から一歩も出なくなった。
そして、数年ぶりに彼が、外の世界に出るきっかけとなったのは、イザークの調査が始まったからだ。
案内人の役を、彼は断り続けたが、現人神直々に命令を下され、拒否は出来なかった。
エメラルドの瞳が、金色に変わる時。
キラは、彼には逆らえない。
彼の手の中で踊り続ける…。
不意に空気がざわめき、森がうなる。
イザークとキラが、一緒に窓を見る。
もう、深夜に近い時刻。
イザークは、立って、窓の外から確認しようとするが、キラに手を掴まれる。
「…か…彼が来た…彼が」
キラが、恐怖の余り、震える。
明らかに、家の中にいてもわかる空気の違い。
「大丈夫だ…」
イザークが震えるキラを、優しく抱きしめる。
大丈夫。
だって、家の中にまで入っては来られないのだから。
「ちっ、忌々しい。レイ!!!」
キラの居場所なんて、探さなくてもわかる。
自分が血を与えた、者なのだから。
しかし、家の前まで来ても、今のままでは入れない。
現人神は下僕を呼んで、あるものを持ってこさせた。
「はい…こちらに」
「よこせ」
レイが、黄金のゴブレットを差し出す。
それを奪い取るようにして、手に持った。
中身は…血だ。
「今宵生まれた…子羊の血です…」
「神の化身…か。自らの性質を中和するといはいえ、口にしたくはないが…しかたあるまい」
現人神は、それを一気に飲み干した。
口の周りに付いた血も綺麗に舐め取る。
薄く開いた唇から、鋭い牙が覗いた…。
音も立てず、家の玄関の扉が開く。
漆黒を身に纏った、支配者が現れた。
神の化身の血を飲んだことにとって、一定時間は人間と変わらない。
招かれずとも…踏み込める。
「ア…アスラン…」
「やあ、キラ。お前は…強いなぁ」
玄関から入ってくる、村人から神と崇め奉られる、現人神。
現人神は名をアスランというようだ。
キラはイザークを庇うように、自分の後ろに隠した。
しかし、キラの震えは止まらない。
「どうして…中へ?」
キラが問う。
だって、本来、吸血鬼は人から招かれなければ…絶対家の中には入れない。
「血を飲んだ」
「そうか…神の化身。貴様、本当に純血種のようだな」
純血種は、自分の性質までも操ることが出来る。
自分とは、真逆の立場である…神を自分に取り込むことにより。
これは、純血種にしか出来ない芸当であった。
「おや?ジュール博士…さすが良くご存知で」
キラの後ろに隠れたイザークを見つけて、アスランがそちらを見る。
「イザークには…近寄らないで!」
キラが言う。
「あんなに強く暗示をかけても、お前の精神力ではすぐに効果が無くなる…」
「…」
「レイが、お前を痛めつけたと聞いたが…もうすっかり良いようだな」
アスランがニヤッと笑うと、密かに覗く、キラが噛まれたという鋭い牙。
「今日は直々に私がジュール博士を村へ連れて行こうと思う…キラ、どけ!」
「イヤだ!!イザーク逃げて!!」
アスランがイザークの手を横から掴むより早く、キラがその間に体を移動させる。
イザークはすぐに裏口から外に出た。
銃とナイフを持って…。
「どこへ行こうというのですか?」
裏口を出たところで、待つ人影。
月明かりに照らされて、黄金の髪と瞳が輝く。
『吸血鬼』
イザークはカチャリと銃を突きつける。
「私も、キラと一緒ですから…死にませんよ?」
「銀の玉を心臓にぶち込まれたら、イヤでも死ねるんじゃないか?」
レイとイザークが対峙する。
「ふ…私は不老不死ですが…」
一瞬にして、レイがイザークの後ろに移動する。
「普通の武器でも死ねますよ?」
「!!!」
レイの手刀がイザークの首を襲った。
「私が、あの方から授かることが出来たのは…不死とこの身体能力ぐらいですから」
崩れるイザークを抱え、レイは悲しげに言った。
蝋燭の明かりが揺らめく。
白いベッドに寝かされる生贄は…神に近しい子。
アスランは、不意に触れてみたくなって、手を頬へ持っていくが、触れた瞬間に手に感じる痛み。
寄せ付けない、神聖なオーラが彼女に纏う。
彼女を頭の先から、つま先まで目を凝らしてみると…指にはめられた忌々しい紋様の指輪。
アスランは触ることは出来ない。
それは、古代からの『吸血鬼』の宿敵…神に近しい者達に授けられる証。
アスランが触れば、たちまち指はただれ、もしかしたら元には戻らないかもしれない。
「レイ!!レイ!」
「…お呼びでしょうか?」
音も無くレイが現れる。
彼は、イザークをつれて、村まで戻った後、今度はアスランが連れ帰ったキラを幽閉するために、
アスランの住む屋敷の地下にいた。
主に呼ばれ、駆けつける。
「この、指輪を外せ…」
「…私がですか?」
「早くしろ!」
自分は、純血種ではないが、彼から直接血をもらっているので、あの指輪を触ったらどうなるか分からない。
しかし、逆らうことは、出来はしない。
「はい…」
レイがそっとイザークの指輪に触れる。
なんとも無い。
レイは速やかに、イザークの指からそれを抜き取った。
「まだ、これをもつ継承者がいるとは思わなかった。彼女が村に来てくれてよかったよ…
探す手間が省けた。彼女は私にとって邪魔にしかならない…」
アスランがまだ眠りから覚めない、イザークを見つめる。
そして、レイが抜き取った指輪に、自らの指を、牙で傷つけ血を出し、その指輪に血を滴らせた。
血を受けた指輪は跡形も無く消えた。
「もう大丈夫か?」
改めて、アスランがイザークに触れる。
まだ少し、指先にピリッとした痛みはあるが、もう平気なようだ。
「さぁ…その神に近しい血を俺が取り込むことで…俺は、もっと神に近づく」
アスランが、横たわるイザークの首筋を指で辿った。
イザークの住む大陸では、一番上位の位にいるのは王ではない。
神官である。
彼らは代々一族で構成される。
イザークはその神官になる家系の子供であった。
しかし、その中でも異端であったイザークは、両親の説得を振り切って学者の道を選んだ。
地位や名誉に興味はない。
自分の好きなことをして、好きな職業に就きたい。
そう思って、家を出た矢先に、両親がはやり病で死んだ。
次の神官の職をイザークは親類に任せ、自分は代々受け継がれてきた指輪だけを引き取り、
森へと篭った。
神が創ったといわれる指輪。
十字架でもない。
独特な紋様を描く、プラチナで出来た指輪は、神の息吹で作られたという伝説を持つ。
そして、それを持つ人間は、神に最も近しい子。
アスランは、ずっと思い描いてきた。
いつまで、この薄暗い森の中で生きていかなければならないのか…。
人よりも、優れた存在でありながら、人から隠れる生活。
いつか、『吸血鬼』が表の舞台に立つ日が来ると。
それには、もっと力が必要だ。
日の光を浴びると、純血種ゆえ、灰になる。
天候を支配できるほどの力…。
神の力が必要だ。
神の子の血を取り込み…自分のものにする。
今宵は満月。
『吸血鬼』の力が、一番高まる日。
「キラをつれて来い…アイツにも見せてやろう。俺が…神になる日を」
「はい…」
ずっと、アスランの傍でじっとしていたレイが、動いた。
キラは、暗黒の世界にいた。
イザークを助けようとして、逆にアスランに反撃にあった。
一人、地下牢に入れられる。
カツンカツンと靴の音がして、牢の柵を見つめる。
でも、何も考えられない。
アスランから受けた、呪縛が効いている。
「…」
「主がお待ちだ…」
レイに連れられて、キラはイザークの横たわる寝台へと向かった。
「今宵、俺は神に近づく…キラ、良く見ているといい」
アスランが、イザークをベッドから台座に移動させる。
屋敷の天井の窓ガラスが開き、丁度その位置に満月の月がはまる。
月の光を浴びて、イザークのプラチナに髪が光る。
キラは、見ていることしか出来ない。
いつもより強力に掛けられた暗示は、頭の随にまで達し、神経が麻痺する。
目には映っているのだ、横たわるイザークと、それを見つめているアスランが。
イザークを助けたい。
自分を受け入れてくれた、彼女を。
吸血鬼だと知っても、逃げ出さないでくれた彼女を。
研究対象でもいい…それでもいい。
自分は。
キラを床に座らせて、レイはキラの後ろに立つ。
アスランは、イザークを抱き起こし、その白い首を露わにさせる。
まず、その美しい首筋をひと舐めし、そしてその首筋に牙を立てた。
骨に届くかと思われるくらい、深く牙が突き刺さる。
イザークがその痛みで覚醒する。
何故自分が、コイツに血を吸われなければならないのか。
何とかして、押し返そうとするが、アスランの押さえ込む力が強すぎてびくともしない。
耳に入ってくる、自分の血が飲まれている音。
だんだんと頭から血の気が引いていき、アスランを押し返すことも出来なくなる。
ただ、アスランの肩越しにキラが見えて、泣きたくなった。
無性に。
体が動かない。
満月の夜。
彼の力は、普段より確実に強まっている。
血を吸われ、涙ぐむ彼女をこの目は見ているのに。
このまま彼女を見殺しになんて出来ない。
キラは、どうにかして体を動かすために、満月を見て、牙を出し、唇をおもいきり噛んだ。
下唇に牙が刺さり、激痛が走るが、頭のもやが晴れていく。
動ける。
キラは、まず後ろにいるレイの鳩尾を蹴り飛ばした。
アスランの暗示にかかっているからと安心していたレイは、不意打ちをくらい、後ろに吹き飛ぶ。
アスランがそれに気がついて、イザークの首から牙を抜く。
イザークはその瞬間を見計って、最後の力を振り絞って手を動かし、
ズボンのポケットに忍ばせておいた銀のナイフで、アスランの肩を突き刺した。
アスランは慌てる。
『吸血鬼』の純血種にとって、銀の武器で刺された部分は、もう二度と元のあるべき姿には戻らない。
そこから、じわじわと腐敗が進んでいく。
でも、心臓を刺されたわけではないので、死なない。
腐って、醜い姿のまま生きながらえるのだ…。
「うわぁぁぁ!!!」
アスランが叫ぶ。
イザークから離れる隙を見て、キラは気を失ってしまった彼女を屋敷の裏口を使って外へと運び出した。
村人に会わないように、すぐに森の中へと入っていく。
月明かりが痛い。
今にでも、アスランと同じようにイザークの血を啜ってしまい。
でも、もうそんなことはしない。
彼女が大切だから…。
アスランはパニックに陥っていて、こちらのことにまではかまっていられない。
追っては来ない。
イザークの吸われた血の量は、致死量には至っていないようで、彼女は生きている。
しかし、このままの状態では危ない…。
病院に連れて行っている時間もない。
キラは、立ち止まった。
そして、森の中で、ひっそりとイザークを土の上におろす。
彼女を抱きしめて、唇にキスを一つ。
「助けてくれて…本当にありがとう」
キラは思い切って、イザークの首に噛み付き、自分の血を与えた。
自分は純血種ではないから、血を与えることによって、彼女が『吸血鬼』になることはない。
こんな所で、彼女を失いたくはない。
イザークの顔色が良くなり、うっすらと目を開ける。
「キラ…お前、大丈夫か?」
「イザーク…」
自分のことを差し置いて、キラのことを心配するイザーク。
「僕…僕、本当は、全部知ってたんだ!!イザークが…アスランの生贄にされることとか、
全部…知ってた。後、ヴァンパイアフィリア…あれは僕がやった…。狂った獣みたいに、僕は見境なく人をかみ殺すんだ!!」
自分がやったのに、罪もない人に、それをなすりつけた。
最低だ。
「…そうか…」
「ごめん…ごめんね」
イザークを抱きしめて、胸のうちをキラはすべて吐き出し、泣いた。
「もうすべて終わったことだろ?」
「でも…」
「私を助けてくれた…アイツの呪縛からお前は逃げられた…その精神でな」
イザークが、優しくキラの頬をなでる。
細い指が、涙をふき取る。
「僕は…許されるなら、これからも一緒にいたい!イザークと一緒にいたいよ…
でも、イザークの方が先にきっと死んでしまう。僕はもう一人で取り残されるのはイヤだ!」
死ねない体。
死ぬ勇気もない。
時の流れに逆らって、悠久の時を孤独に過ごす。
何故、アスランは自分なんかを不死にしたのか、今ではもう分からない。
「…私の血…飲んでみるか?」
ポツッとイザークがつぶやく。
「え?」
「良く覚えてはいないが…神に近しい者なのだろう?私は…。
だったら、この血でお前のその血を中和できるかもしれない」
でも、今さっきキラが輸血をしたのだ。
なので、今イザークの体内の血には、キラからの血液も混じっている。
上手くいくか分からない。
「私は…キラをその苦しみから救いたい」
イザークが、体を起こし、キラに抱きつく。
「イザーク…ありがとう」
心から…。
キラも、彼女を抱きしめる手に力をこめた。
海を渡った、遠い国。
満月の夜に、湖に船を浮かべる。
船には二人の人影がいて、もう苦しむことはない。
END