どうやって自分の外来に戻ってきたのか判らない。
田口は気がついたら、不定期愁訴外来の休憩室のソファの上に寝ており、頭の上にはひんやりとした、タオルが乗っけられていた。
「んー」
「お、ぐっちー起きた?」
寝たままで右を向くと、なぜか自分の聴診器を首から掛けている白鳥の姿があった。
「なに…してるんですか」
普段なら、ぎゃーっと怒るところだが、今はそんな気も起きない。
頭がクラクラしている。これは脳震盪の症状かもしれないなと田口はぼんやりと思った。
「いやー驚いたよ。ぐっちーのコーヒーを飲みに来たら、当の本人が愚痴外来の前の廊下で倒れてるんだもん。僕が中まで運んだんだよ」
救命の部長室から、田口は何とか自分の外来まで辿り着いていたが、もう一歩のところで力尽きてしまったようだ。
田口が寝ていたソファの横のテーブルには、ご丁寧にどこから出してきたのか、血圧計までおいてあった。
「ありがとうございます」
「おでこにね、おっきなコブが出来てるから、冷やしてあるよ」
言われてみると、田口は額がズキズキするような感覚を覚えた。モルタルの床に顔から突っ込んでしまったようだ。鼻も痛い。
田口はゆっくりとソファから起き上がったが、目が回ってしまい、再度ソファに逆戻りした。
「あー無理しちゃダメだよぐっちー」
白鳥が、ポンポンと田口の頭を優しく撫でる。
珍しく優しい白鳥の好意に、田口は目頭が熱くなるのを感じて、かけてあったタオルケットで顔を覆った。
田口が次に目を覚ました時。部屋の窓からうっすらと朝日が差し込んでいた。
人の気配がしない。白鳥は帰ったようだ。
「…んっ」
寝心地の悪いソファの上で、少し伸びをする。
目の上と鼻がヒリヒリして、頭も痛い。特に痛いおでこを触ると、まだたんこぶが残っていた。
「何時…まだ、6時か」
壁にかけてある時計を見ると、6時10分を指している。
田口はのそのそと起き上がり、顔を洗うために、部屋に備え付けてある小さな洗面台に行った。
鏡に映るのは、ぼさぼさの髪の毛で、目が腫れていて、おでこも鼻の頭も赤い。
なんて無様な自分の顔。
「最悪」
悪態をついて、蛇口をひねり、田口は冷たい水でバシャバシャと顔を洗った。
昨日のままの服ではさすがに不味いと思い、田口は予備に用意をしてある服に着替えて、サイフォンにコーヒー豆と水をセットした。
数十分たつと田口の好きな、いつものコーヒーの香りが漂ってくる。
今は何も考えたくなかった。コポコポと沸くお湯をじっと眺めて、田口は頭を空っぽにする努力をした。
幸い、今日はICUに赴く日ではなく、一日を通して、不定期愁訴外来の診察日だった。
ゆっくりコーヒーを飲んだ後、もう一度ソファでうとうとし、9時過ぎに病院内に入っているコンビニエンスストアに行き、サンドイッチと好物のケーキを買った。
店員に鼻大丈夫ですか?と傷をえぐるようなことを言われたが、愛想笑いでごまかした。
少しでも、自分のテリトリー外にいたくなくて、どうしても足早になる。
不定期愁訴外来から、コンビニまで行くには、どうしてもICUの入っている棟の近くの廊下を通る。
びくびくしながら、廊下を歩いていると、不意に田口は誰かに肩を叩かれた。
心臓が爆発しそうに飛び跳ね、田口は思わず持っていてビニール袋を取り落とす。
ガチャっと音がした。
たぶん、ケーキの入れ物の音で、中身がグチャグチャになってしまっただろう。
田口が袋を拾う前に、自分の肩を叩いた相手が袋を拾う。
彼女の肩を叩いたのは、長谷川だった。
「ご…ごめん。驚かせた?」
「長谷川せんせ…いえ、ちょっと…すみません」
田口の反応の異常さに、朝のちょっとした挨拶のつもりだった長谷川も驚いたようだ。
長谷川の持つ田口のイメージは「多少のことでは驚かない、ちょっと図太くて鈍い女医」だったからだ。
痴漢にでもあったような女の子の反応に、長谷川もどうしてよいのか戸惑うが、取り敢えず袋を手渡す。
「ほんと、ごめん」
「いいんです…私のほうこそ。い…急ぎますんで、失礼します」
田口は長谷川に軽く会釈をすると、足早にその場を立ち去る。
田口が立ち去ってすぐ、長谷川の後ろに速水が現れた。
「何してる」
「いえ、田口先生とそこであったんですけど。ちょっと様子が変で」
長谷川
「…そうか」
速水は咥えていた飴をガリっと噛んで、ICUに戻っていった。その後を追うように、長谷川も廊下を後にした。
その日の不定期愁訴外来の患者は午前中に2人。午後に1人だった。
午前中の患者は、手術の痛みの訴えや病院の対応の悪さ、他の科の医者の愚痴を散々言って帰っていった。午後の患者は古いなじみの喜寿を過ぎた女性だった。
膝の痛みが治らずずっと通い続けているが、愚痴の内容は膝が1割で夫や嫁、友人のことが9割だった。特に今日は夫に対する愚痴の内容が多かった。
『昔は優しかった』『口ばっかり』『釣った魚に餌はやらない』「」肝心な時に何も言わない』等々の愚痴をひたすら聞かされた後。
『それでも、好きになったんだからしょうがない。理屈じゃないのね。恋愛は楽しいけど結婚は難しいのよ田口先生』と釘を指しつつ、すっきりした表情で帰宅した。
喜寿のおばあさんに、田口は釘を指されてしまった。
午後の診察が終わったのが、16時過ぎ。昨日は帰らずに病院に泊まってしまったので、今日は帰ろうと帰り支度をしていたとき。不定期愁訴外来のドアをノックする音が聞こえた。
「はい?」
「入るわよ」
入って来たのは、同期の和泉だった。少し顔が赤い。
「悪いんだけど、今日の当直代わってほしいの。20時からでいいから、予定なんかある?」
「無いけど…私がいても、絶対役に立たない」
「今日の私よりはまし。どうやら風邪引いたみたいで、体調管理できないなんて、かっこわるいけど」
まあ、少しでも役に立つなら…と、田口は引きうけることにした。
和泉がどれだけ頑張っているのかも田口は知っているし、困っている人を見捨てて置けない。
「助かる。一度家に帰る?」
机の上に用意していたカバンを見て、和泉が尋ねる。
「うん。実は、昨日帰ってなくて。すぐ戻ってくるから、その間ちょっとだけ頑張って」
和泉がICUに戻ると、すぐさま田口も不定期愁訴外来を後にした。
机に置かれた救命救急のシフト表の今日の日付には、夜勤欄に長谷川と速水の名前があった。
田口は家に帰り、軽く風呂に入って、夕食を取るとすぐに病院に戻った。
一度不定期愁訴外来に立ち寄り、カバンを置いて白衣を着る。風邪を引いた和泉と話したので、念のためマスクを着用して、ICUに入った。
田口がICUに入った時間は、午後7時。幸いに救急車で運ばれてくる患者おらず、処置室ではなく、病棟での勤務となった。
しかし、田口は医者といっても、手術や外科的治療とはまったく無縁の心療内科医。
自然とできることは限られてくるし、看護師よりも動けない。
仕方なく、忙しそうな看護師の仕事を手伝ったり、何かできそうなことを自分で見つけて、雑用をこなした。
ICU病棟には、長谷川と研修医が1人詰めており、カルテを書いたり、患者の様子を見ていた。
明るい病棟内部は、心電図と脈拍を測る電子音が不規則になっている。
時々興奮して目を覚ましてしまう患者の対応をしながら、田口の当直業務の時間は流れていった。
午後11時。今日のICU病棟は本当に珍しく救急要請のコールが鳴らない。
ステーションでカルテ整理を手伝っていた田口の元に、長谷川がやってくる。
「田口先生疲れない?」
はいっとテーブルに置かれたのは、紅茶の缶だった。
「コーヒーは田口先生の専門だから、紅茶ね」
「ありがとうございます。疲れてませんよ。雑用しかできませんし、ちょっと混乱した患者さんのお話を聞くぐらいしか、お役に立てませんから」
「そう。ほら、ちょっと座れば?」
田口は促されて、ステーションにある椅子に座る。
「ふぅ…」
「やっぱり、疲れてるんじゃない?マスクもしているし、もしかして風邪引いた?和泉先生から、昨日は病院に泊まったって聞いたけど、心療内科も忙しいんだ?」
椅子に座ったとたん、田口の口から、ため息がこぼれた。
立ちっぱなしの業務に、田口は慣れておらず、珍しく4時間以上も立っていたので、やはり足腰が疲れていたようだった。
「風邪じゃないですよ。マスクはさっき和泉先生と話したので、念のためです。私、体力無いんです。いつも、座っての仕事ですし、治療するわけでもなく、患者さんの話を聞くだけですから」
「先に仮眠とる?もうそろそろ…」
長谷川が腕の時計を見ると同時に、ICUの入り口の自動ドアが開く。
「速水先生が来る…って、さすが、時間通り」
足音も無く入って来たのは、ICUの主だった。
田口は速水という言葉を聴いて、体が震えた。
「ねぇ、栗山さん」
「何ですか、長谷川先生」
ちょうど田口と長谷川の後ろで作業をしていた看護師の栗山に長谷川が話しかける。
「田口先生に、仮眠室案内してあげて」
「いいですよ。じゃあ、田口先生行きましょ」
最悪のタイミングが、奇跡的に回避された。田口はよろよろと立ち上がり、栗山の後を追う。
速水とすれ違ったが、顔も見ること無く、田口はICU病棟を後にした。
仮眠室は病棟のすぐそばにあった。
小さな真四角の部屋には入り口以外の壁に沿って、簡易ベッドが3台あり、それぞれがカーテンで仕切られている。
「じゃあ、ゆっくり休んでください。時間の目安は一応4時間なんです」
「ありがとう」
案内をしてくれた栗山はすぐに病棟に戻っていった。
一人残された田口は、マスクを取り、白衣のポケットに突っ込んで、部屋にあるハンガーにかける。
一つのベッドを選んで、入り込み横になった。
カーテンを引くと、より薄暗さが増したが、眠気はこない。
心臓の音がうるさすぎて、とてもじゃないけれど眠れそうになかった。
布団を頭から被り、壁側を向いて小さくなる。
朝から、ずっと考えないようしていたのに、速水の存在を認知したとたん、まざまざと昨日の恐怖が蘇る。
力で組み伏せられ、弄ばれた。
タダの嫌がらせか、遊びか、嫌いだからするのか…言葉一つ発せずに行われる行為はたとえそこにひとかけらの愛があったとしても、タダの暴力に過ぎない。
何か一言でも言ってくれれば。
「…なに…考えてるの…私」
あの速水が何かを言ってくれると自分は思っているのだろうか。目の前にいる患者以外には意識を向けない男が、自分なんかに何を言うのか。
あの、キスは速水にとってはタダのストレス解消に違いない。
「でも…キスは好きな人としたい…」
布団の中で、田口は自分の唇に触れた。
自分のものとは違う、速水の乾燥した唇の記憶はまだ残っていた。
カチャという音が聞こえ、田口はもぐった布団の中で、自分の腕時計を見た。
時間は、まだ23時半。
ここは医師専用の仮眠室なので、長谷川や研修医の誰かが仮眠を取りに来たのだろうと思い、田口は横になっていた。
しかし、入ってきた人間は、空いているベッドに入らずに、田口の寝ているベッドのカーテンを開けた。
カーテンを閉めていたのに、使っているとわからないのか、田口はかぶっていた布団をどけて、相手に告げようとした。
「すみません…使って…っ」
しかし、仮眠室に入ってきて、田口のベッドのカーテンを開けたのは、長谷川でもなく研修医でもない。
速水だった。
蛇に睨まれた蛙のように、田口は上半身を起こしたまま、動けなくなった。
声も出ない。
「長谷川から疲れていると聞いた。大丈夫か」
「…ぁ…」
「その額どうした?」
声が出ない田口を尻目に、速水が田口の顔に向けて手を伸ばす。
「やっ」
その手が額に届く前に、田口の手が速水の伸ばしてきた右手を掴む。
「ぁ…の…ぶ…ぶつけた…んです。大丈夫…なんで」
「……俺が怖いか」
田口が掴んだ速水の手を、今度は逆に速水に掴まれる。
昨日の恐怖が蘇り、田口の手が震える。目には薄っすらと涙も見える。
「ぁ…ぃ…」
「っ…悪かった」
さすがの速水も田口の振るえに戸惑いを見せた。掴んだ手を離す。
「謝る前に…何か言ってください」
その場を立ち去ろうとする速水の背中に田口が話しかける。
声は震えていて、聞こえるか聞こえないかの音しか発せられない。
それでも、ベッドから降りて、田口は立ち上がる。速水は田口の方を振り返る。
「私の事が嫌いならそう言ってください。救命から外してください。仕事で嫌味を言われたりするなら我慢できます。でも…」
「こういうのは、嫌か」
速水が田口に近づき、顔を近づける。唇が重なりそうだったが、数センチのところで速水の動きが止まる。
「こんなことをしても、速水先生にはなんのメリットもない。タダのゲームだったり遊びなら、そう言ってください」
遊びでこんなことをする人だとは思いたくないが、もしそうなら。
救命にはいられない。
こんな人の下で、人の命を救う仕事を自分はできない。
「今まで俺には仕事しかなくて、でも仕事とは比較できないが、田口先生のことが気になった」
「ぇ…なに…言って」
「俺に突っかかってくる女は初めてだった。俺に媚を売ることなく、仕事をする田口先生が…気になったんだ」
速水が田口を抱きしめる。
「昨日は悪かった。遊びや嫌がらせと思われても仕方ないことをした」
「速水…せんせ?」
あの、救命救急のチームを指揮する将軍とは思えない発言。
田口を抱きしめる手は力ずくではなく、いつでも解ける強さ。
「せんせい?あの…」
「俺の言いたいこと判るか?」
「…あの…小学生の男の子のアレですか?」
「っ…」
沈黙は肯定だった。百戦錬磨の外科医は意外と恋愛に対して奥手な人だった。
「そうだ」
抱きしめていた手が離れ、もう一度速水の顔が田口に近づく。今度はとまらない。
そのまま、唇が重なる。
田口は、逃げなかった。
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