田口は、ここが病院であり、決して走ってはいけない場所であることを忘れていた。
救命救急センターの部長室から、田口の職場の不定期愁訴外来まで、たいした距離ではないのに、何度人にぶつかりそうになっただろう。何度転びそうになっただろう。(実際1度はこけた)
この心臓の音は走ったものによるものか、それともさっきの…
「わーー!!」
思い出して、さらに動悸が酷くなる。
田口は、何とか不定期愁訴外来の自分の部屋まで辿り着くと、誰もいないことをいいことに、バタンと大きな音を立てて、扉を閉めた。
自分のパソコンデスクの椅子に座り、頭を抱えこむ。
「(あれは…セ…セクハラかっ)」
一瞬の出来事だった。完全に不意を付かれた。
「うぅぅ…」
顎が痛む。
「(これは、速水先生の頭に当たって…)」
上唇が痛い。
「(速水先生に…か…噛み付かれて…)」
覚えの無いフルーツの香り。
「(速水先生が…舐めてた…飴)ぎゃー!」
一つ一つのことを、思い出し、再確認すると、よりリアルに記憶が想起される。
「こ…これは、きっと、報復で、嫌がらせだ!!」
「何が?」
自分に言い聞かせるように、大声で言うと、聞きなれた声で返事が返ってきた。
「ぐっちー、さっきから、ぶつぶつうるさいよ?」
「ひっ?!…白鳥さん」
速水に噛みつかれたことがあまりにショックすぎて、田口は白鳥と一緒に部長室に言っていたことをすっかりと忘れてしまっていた。
「置いてかないでよ〜おじさん、寂しーじゃない」
「す…すみません(それどころじゃなかったんだっ)」
田口は椅子に座ったまま、白鳥のほうを向いて謝る。
「いいけど。あれ、ぐっちー上唇から、血が出てるよ?」
白鳥は目ざとく、田口の上唇の傷を見つける。
「っ!!」
田口は、とっさに唇を隠した。かすかな鉄の匂いが鼻をつく。このとき初めて、出血していることがわかった。
「か…帰ってくる時に、転んじゃって…あー、白鳥さん、コーヒー飲みませんか!?」
「…」
田口がごまかしているのは、ばればれだった。
白鳥は仮にも医師免許を持っている医者だ。
転んだ傷ではないことはすぐにわかった。
顔から転んだら、鼻を擦る。まして、この病院の床はモルタル製。ちょっと転んだぐらいなら、痣はともかく、擦り傷にはならないだろう。あんなに小さく、噛んだような痕には。
「ぐっちーはおっちょこちょいだからなー」
しかし、白鳥は、田口の嘘を信じた。これは、田口と速水のことであり、自分は一切関係の無いことだったからだ。
「(ココで、僕が怒ると、僕がぐっちーを好きみたいじゃない)」
白鳥はその後、不定期愁訴外来で一服してから、部活動に言ってくると言い、病院を後にした。
静かになった愁訴外来には、今日はもう患者も来ない。
ICUに行くことも考えたが、時計を見ると午後7時を回っていた。
救命での、正式な勤務形態を聞いていないため、自分がどの程度の時間までいればよいのか、田口には判らなかった。しかし、普段なら家に帰る時間だ。
「か…帰ろう」
あの出来事があって、田口はいつもの3倍疲れていた。
のそのそと帰宅準備をし、机の書類整理も適当に、愁訴外来を後にした。
自宅に帰ると、食事もそこそこに、風呂に入る。
顔を洗った時に、唇にピリッとした痛みを感じて、また思い出す。歯を磨く時にも思い出して、顔が真っ赤になった。
「これは、嫌がらせ!犬に噛まれたと思って、忘れよう」
愚痴外来は伊達じゃない。嫌なことも、受け入れる器が田口にはある。
田口は深く考えることを止めて、さっさと眠りに付くことにした。
忘れようと思った後の田口は回復が早かった。
翌日、不定期愁訴外来に出勤し、数人の患者の話を聞いたら、昨日の出来事はすでに頭の片隅に行ってしまっていた。
ICUにも普通に顔を出し、患者の話を聞き、メンタルサポート要員としての責務を全うしていた。
数人の患者とその家族との話を終えた後、長谷川に呼び止められた。
「長谷川先生、どうかされましたか?」
「あぁ、シフトのことで、速水先生が呼んでたよ」
「そうですか。ありがとうございます」
田口は以前、同期の和泉から内科系の外来とは違い、救命のシフトはかなり不規則だと聞いたことがあった。何日も帰れないのは当たり前だし、公休日に呼び出されることもしょっちゅうだという。
田口自身にどの程度のものを求めているのかは判らないが、救命の仕事をする以上、色々な勤務形態が組まれることは確実だった。
田口は救命救急センターの部長室前まで来て、ノックをする。
返事は無いので、一呼吸おいてから、中に入る。
ドアを押して開けると、薄暗い部屋の中には誰もおらず、モニターの映像だけがチカチカと切り替わるたびに光を発してた。
「あれ?」
田口を呼び出しておいて、当の速水はいなかった。
「おかしいなぁ…」
田口は取り合えず、部屋の中に入った。
「…呼び出されたら、走って来い」
「ひぃ!」
突然後ろから声が聞こえて、田口は驚き、声のしたほうを振り返った。
入り口のドアの隅に隠れるようにして、速水が立っている。
彼は腕組みをして、入り口のドアのすぐ横、ドアが開かれたら死角となる部分に隠れていた。
「そこに座れ」
ソファを指差されて、昨日の出来事と記憶がリンクする。田口は怪訝そうな顔をしたが、速水の言葉は絶対なので、おとなしく二人がけのソファの入り口に近い隅っこに座った。
「机の上にあるのが、田口先生の今月のシフトだ。目を通して、都合が悪いところがあれば、言ってくれ」
ソファの前にある机には、A4サイズの紙切れが一枚乗っかっていた。
救急の医師の勤務表で、列の一番したに田口の名前があった。
朝番や日勤、遅番や夜勤、当直もある。田口には日勤以外のシフトはほぼ初めてに等しかった。
持ってきておいた自分の心療内科でのシフト表を白衣の胸ポケットから出して、広げる。
照らし合わせると、速水のところに事前に心療内科の医局からシフトの情報が行っていたのだろう、特に問題も無かった。
「いえ、これで大丈夫です。シフト表いただきます」
救命でのシフト表を綺麗に折りたたみ、持ってきた自分のシフト表とともに、また白衣の胸ポケットにしまった。
「初めての勤務形態だろうけど、できるだけ指示はする」
「…」
速水にしては、珍しく優しい返答だった。田口は、絶対に突き放すような言葉が返ってくると思っていたので、妙に違和感を覚えた。
壁際に立っていた速水が、田口の座っているソファの後ろを歩き、なぜか田口の座っている二人がけのソファに座る。
速水が座ると、重みで田口の体が揺れた。
田口はなぜかわからないが、危険な雰囲気を察知した。これは、昨日のデジャヴ。
唇を噛まれた記憶が、フラッシュバックする。
「じゃあ、私は救命にもど…」
「おい」
速水の左手がやはり横から伸びてきたため、田口はとっさにその手を自身の左手で振り払った。
パチンと乾いた音がする。
田口は一瞬、不味いと思ったが、スッと立ち上がり、駆け足でドアに駆け寄る。
ドアを引こうとして、ドアノブを引くが、後ろからバンっと速水の手によって押さえ込まれてしまった。
ドアを引こうにも、田口の力は速水には到底かなわない。
田口は速水が怖くて、ドアの方向を向いたまま、速水のほうを向くことが出来なかった。
「そ…そろそろ、もどらないと…」
こわごわというと、田口の背後、頭の上の方からかすかな吐息が聞こえる。
「部長の手を叩き落として、まったくいい度胸だな」
「それは!!」
田口を良いように振り回しているのは、速水であるのに、彼は権力を盾に、田口を弄ぶような発言をする。
「田口先生は…」
「うぇ?…んっ」
田口は肩を掴まれ、クルッと体を回される。体の軽い田口は足で踏ん張ろうとしても、されるがまま。
体が浮くようにして回り、田口は速水と対面させられる。
そして、そのまま田口の唇が、速水のそれによってふさがれた。
噛み付かれた昨日とは違う。やわらかく重なる唇。一瞬は離れた後、さらに深く求めるように、速水の指と唇が動いた。
速水は、左手は田口の手首を強く掴みドアの壁に押さえ込んだまま、右手を田口の唇に持って行き、人差し指で彼女の唇をこじ開けた。
「なんっ…ぁ…」
田口は指の侵入に驚き、歯を立てようとしたが、残っていた理性が動いた。
指は外科医の命だ。速水の専門は心臓のカテーテルだが、救命ではどんな内容の手術や処置も行わなければならない。
速水の指には傷一つあってはならない。
田口の唇は、閉じなかった。
口を開けるために使った指をはずし、速水は再び田口に唇を寄せる。くちゅっという音を立てて、今度は速水の舌が田口の口内に入り込んだ。
「んぅ…ぁぅ…は…いぁ」
速水は無言で田口の唇をむさぼる。田口はぎゅっと目を閉じて、耐えた。
自由な左手は持って行き場が無く、ぎゅっと血管が浮き出るぐらいに握り締めた。
速水の舌が田口の縮こまってしまった舌を、引きずり出すように絡める。唾液の絡まる音と田口の必死に空気を吸い込もうとする音が、部長室に反響した。
次第に田口の体がズルズルとドアを伝って、床に落ちる。
頭に酸素がいきわたらず、意識が朦朧としてきていたからだ。
彼女の体が落ちだしたことで、漸く唇が離れ、田口の肺の中に一気に空気が流れ込む。
「げほっ…はっ…けほっ…」
大量の酸素を体が必要としているのが判り、田口は思い切り空気を吸い込んだが、気管に、口に溜まっていた唾液が入り込み、思い切りむせた。
速水に掴まれた田口の右手はいまだ離れていないため、自由な左手で口を覆って咳をすると、口の周りの唾液が手に付いた。
顎にも濡れた感覚があった。
赤い顔に、さらに赤みが増した。
田口がむせていても、速水は何もしなかった。
田口の薄っすらと開いた目には、速水も床に膝を付いている映像が見えた。
「もっ…い…や…嫌だ」
田口が息切れしながら、呟くように言う。
「ふざけるのも、いい加減にして!!」
部長だとか、自分の上司だとか、権力とか、田口にはどうでもよかった。
彼女は、なりふり構わず、掴まれていた左手を振り上げる。先ほどまでは強く握られていた手はすんなりと解けた。
両手を使って、速水の体を押しのける。
膝を付いていた速水の体が、ゆっくりと後ろに下がり、しりもちをつくような形になった時、田口は速水と目が合った。
彼の目はじっと田口を見ていた。目線がかち合った瞬間、彼の口角が上がった。
そして、これ見よがしに自分の唇の端を流れる唾液を舌で舐め取った。
田口はこれ以上この場にいたら、精神がおかしくなると感じて、震える膝や手を奮い立たせて、立ち上がり、ドアを開けた。
あんなに開かなかったドアがすんなり開く。
もう、速水は追ってこなかった。
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